Message
島から、世界へ。私たちが証明したいこと。
はじめに
なぜ、この仕事を始めたのですか。
そう聞かれるたびに、私は少し言葉に詰まります。「これだ」という、きれいな理由があるわけではないのです。ただ、私の中には昔から、小さな願いがひとつありました。
“身近な人には健康でいてほしい”
たったそれだけの願いが、私を瀬戸内の小さな島へ、そして海を越えたアジアの舞台へと連れて行くことになるとは、あのころの私は思ってもいませんでした。
1. 父のこと
いまから10年以上も前のことですが、私は父を亡くしています。
父は製造業の会社を起こし、私たち家族をずっと支えてきた人でした。決して器用な生き方をする人ではありませんでしたが、幼いころから苦労を重ね、自分の手で会社をつくり、家族を食べさせてきました。
その父の体が傾き始めたのは、2009年のリーマンショックのころです。もともと患っていた糖尿病が進行し、やがて在宅介護が始まりました。病状が悪くなると入退院を繰り返すようになり、介護を担う母も、少しずつ疲れ果てていきました。
父は、わがままな人でした。禁煙も、禁酒も、食事制限も、最後まで守ろうとはしませんでした。夫婦の関係も、そのぶん、ぎくしゃくしていきました。私は私で、家族の力に少しでもなれないかと、福祉用具専門相談員という仕事に就き、わずかばかりの介護の知識を役立てようとしていました。
当時、父はまだ60代でした。頑張れば、普通の暮らしに戻れた可能性は、きっとあったと思います。けれど父は、最期の最期までタバコを吸っていました。指が変色してもなお、やめようとはしませんでした。
私は、本人が望むのならそれも仕方がないと思っていました。そして、どこかで、その潔さや格好よさに、共感すらしていたのです。苦労の多かった父は、ただ長く生きることに、美しさを感じてはいなかったのかもしれません。
それは、ひとつの美学です。私も、わかる気がします。
でも、健康でいてくれたら、もっと話せたことがあったのではないか。いまでも、たまにそう思うのです。
明確な答えは、いまも私の中にありません。ただ、身近な人には健康でいてほしいという小さな願いだけが、静かに残りました。それが、すべての始まりだったように思います。
2. 島との出会い
転機は、2018年に訪れました。
東京で、「まめなプロジェクト」の発起人と出会ったのです。私はそこで、「介護のない世界をつくりたい」という言葉を、直接耳にしました。その舞台は、瀬戸内海に浮かぶ大崎下島。とびしま海道と呼ばれる島々のひとつでした。
翌2019年3月、私は現地へ赴きました。医療、介護、自治体の関係者を訪ね、地域にどんな課題があるのかを一つひとつ聞いて回りました。そのうえで、優先すべき課題を解きながら、どうすれば「介護のない世界」をつくれるのかを考え始めたのです。
島は、想像以上に厳しい場所でした。コンビニも、ドラッグストアもありません。あるのは、ぽつぽつと点在する小さなスーパーだけ。当時はインターネットの光回線さえ届いていませんでした。不動産屋がないので、事務所を借りることすらできません。「これは、とてつもなくハードルの高い挑戦になる」。私は正直、そう実感していました。
ところが、です。
坂道をのぼっていた私を、ひとりの男性が軽々と追い抜いていきました。70代前半でした。柑橘栽培をしているその人の足腰は、都会から来た私よりも、ずっと確かでした。
この島の久比という地区には、「農床(のうとこ)」という文化があります。家庭菜園に近いものですが、そこで採れた作物を地域で物々交換したり、畑仕事そのものが、住民の生きがいになっているのです。
医療資源も、介護資源も足りない。けれど、だからこそ、ここには人が健康でいられる要素と可能性が、たしかにありました。私は、この島で創業することを決めました。
このことを、私はほとんど誰にも相談しませんでした。ただ一度だけ、島を訪ねてくれた友人が、はっきりと言いました。「やめたほうがいい」と。
3. 生き方の提示
創業を決めても、現実は何ひとつ簡単ではありませんでした。
地域の優先課題は、訪問看護ステーションの開設でした。けれど、とびしま海道で看護師を雇うことは、まず不可能に近いことでした。過疎は深刻で、高齢化率は島全体で55パーセントを超えていました。本土の呉市から通ってくれる看護師も、ほとんどいません。移住してもらわない限り、看護師は雇えず、訪問看護ステーションも開けない。そういう場所だったのです。
普通に広告やハローワークで求人を出しても、誰も来ないことは目に見えていました。雇用条件を多少よくしたところで、来るような場所ではありません。
そこで私は、「条件」の提示をやめました。代わりに、全国の看護師へ向けて、「新しい生き方」を提示したのです。
”瀬戸内海の穏やかな海のそばで、訪問看護をはじめ、副業やアルバイトなど、いくつもの仕事を掛け持ちしながら、自己実現をしてみませんか”
そんな呼びかけを、あらゆるところに投げかけました。
すると、わずか1-2か月で、3名の看護師の雇用が決まったのです。訪問看護ステーションの開設には、常勤換算で2.5人以上という人員配置基準があります。その基準を、いきなり満たすことができました。
いま振り返れば、これは象徴的な出来事でした。私は創業のその瞬間から、条件ではなく生き方を、つまり「ストーリー」で人を動かしていたのです。
もっとも、迎える側の現実は泥くさいものでした。不動産屋がないので、テナントの情報などありません。地域の方に空き家を紹介してもらい、そこを事務所にしましたが、便所はぼっとん式で、夏になると大量の虫が湧きました。まともな拠点を得られたのは、2年ほど経ってから。「まめなプロジェクト」によって地域の病院跡地がリノベーションされ、ようやくそこを事務所にできたのです。
理想と現実のあいだで、島の訪問看護は、こうして始まりました。
4. 拒絶と、逆転
歓迎されたのは、心無い言葉でした。
開設の前から、私たちは反対されていました。すでに島には介護事業者がいたため、「邪魔をするな」と言われたのです。「出て行け」と言われたことも、一度や二度ではありません。
けれど、私たちには譲れない理由がありました。とびしま海道には訪問看護ステーションがなかったために、病院で治療を受けた高齢者は、退院しても自宅で療養することができませんでした。残された選択肢は、老人ホームに入るか、遠く離れた家族のもとへ引っ越すか。そのどちらかしかなかったのです。住み慣れた家で最期まで過ごすという、当たり前の願いが、この島では叶えられませんでした。
私は、このことを何度も何度も説明しました。それでも介護保険制度の難しさもあり、理解に至らない人もいました。だいぶ減りましたが、いまなお一部の方から、嫌がらせを受けることもあります。そこには排他的な側面もあり、どこか嫉妬に似た感情もあるように、私には思えます。
スタッフたちも苦労していました。当時は、訪問看護というサービスそのものが、介護関係者のあいだですら十分に理解されていなかったのです。「訪問看護とは何か」というところから、地道に対話を重ねるしかありませんでした。一方で、島暮らしに憧れて来たスタッフは、私生活のほうはすぐに馴染んでいきました。みかんを育てたり、住民との交流を楽しんだり。その姿には、救われる思いがしました。
訪問看護ステーションが開設したのは、2020年1月1日。しかしその3-4か月後、私たちはコロナ禍に突入します。当時運営していたカフェは、すぐに閉めることになりました。初年度の売上は、2百万円ほど。資金は、あっという間に底をつきかけました。コロナ融資のおかげで、なんとか命拾いをしたのです。
ところが、皮肉なことが起こりました。
コロナで外出できなくなった高齢者たちに、フレイルの危険が高まっていったのです。「出て行け」と言われたその島で、訪問看護の必要性が、静かに、しかし確かに証明されていきました。ここから訪問件数は少しずつ伸び、売上も伸びていきました。
拒まれていた存在が、危機のなかで、必要とされていったのです。
5. 必然としての革新
そもそも、なぜとびしま海道に訪問看護ステーションがなかったのか。理由は、驚くほど単純でした。赤字になるからです。
人員配置基準を満たそうとすると、毎月およそ一人分の人件費が足りなくなり、慢性的な赤字が続いてしまう。しかも看護師の雇用そのものが難しい。だから、どの事業者もこの地域でやろうとは考えませんでした。実現性が、あまりに低かったのです。
私は、そのことをわかったうえで、正面からぶつかることはしませんでした。ほかの事業も手がけ、トータルで黒字にしていく。そういう仕組みなら、続けていける。そう考えたのです。
そして、その柱を「介護のない世界」と結びつけました。介護のない世界とは、いわば「ピンピンコロリ」の世界です。健康寿命を延ばし、入院や介護の期間を、できるかぎり短くする。それを実現するには、予防医療しかありません。高齢者を対象にした予防医療と見守りのヘルスケアサービスを構築し、そこから売上をつくる。それが小さなモデルケースとなり、やがて全国へ展開できる。こうして生まれたのが、「スタートウェル」でした。
スタートウェルは、思いつきの新規事業ではありません。「島で訪問看護を成り立たせる」という難問を解くために、論理的に導き出された、ひとつの必然だったのです。
そしてもうひとつ。私には、島だけで終わらせるつもりは、最初からありませんでした。地域ビジネスだけでは成り立たないこともわかっていましたし、何より、島発で全国、いや世界へと展開することを、当初から思い描いていました。以前からエストニアやクロアチアのスタートアップと交流があり、世界をフィールドに仕事がしたいと、ずっと考えていたのです。
その設計図を、時代が初めて認めてくれた出来事がありました。2022年、「ひろしまユニコーン10」への採択です。広島県から10社のユニコーン企業を輩出しようという、当時の知事の構想のもとに始まったプログラムでした。数多くの企業のなかから私たちが選ばれた理由のひとつは、「社会課題解決」という、世の中の新しい潮流だったのだと思います。
ここから、認められる出来事が続いていきました。同年の「Hiroshima Global Unicorn Incubator」や「Knot Program 2023」などへの採択。そして2024年に、「アジア健康長寿イノベーション賞」テクノロジー&イノベーション部門で、大賞を受賞したのです。
島の小さな挑戦は、少しずつ、時代に追い認められていきました。
6. 世界へ
2025年、「アジア太平洋エルダーケア・イノベーション・アワード」でファイナリストに選ばれ、その夏、私はフィリピンの「Metro Manila Business Conference 2025」に登壇します。舞台は、いよいよASEANへと移っていきました。
なぜ、ASEANだったのか。
アジアは、大きな成長の只中にあります。けれど、成熟国のように医療インフラや交通インフラが国内に行き渡る前に、高齢化の波が来てしまう。このままでは、取り残されてしまう人々が数多く生まれてしまうのです。
そのとき、ASEANの運営者たちが関心を寄せてくれました。日本の、インフラが未熟な小さな島で、ASEANが理想として掲げる思想「Aging in Place」を、すでに実現している会社がある、と。
Aging in Place。住み慣れた地域や家で、人生の最期まで、健康に、生きがいを持って暮らし続ける、という思想です。
その言葉を知ったとき、私はあの日の光景を思い出しました。坂道で私を追い抜いていった、柑橘畑の男性。そして最期までタバコを離さなかった、私の父のことを。
住み慣れた場所で、自分らしく、最期まで生きる。ASEANが理想として掲げるそれは、制度の用語である前に、私が父に願ったことそのものでした。
2026年、私は「ASEANハイレベル会合」の舞台に立ちました。そこは政府関係者や政府機関、研究者が集う場であり、一般の企業や民間人が、簡単に入れる場所ではありません。私はただ、日本の私たちの事例を、彼らに伝えることに専念しました。
発表が終わると、何人かが私のもとに歩み寄ってきて、こう言ってくれました。
「素晴らしい発表だった」
「ぜひ、その島に行ってみたい」
かつて「出て行け」と言われた私たちが、世界の舞台で、「その島に行きたい」と言われている。私は、静かな手応えを感じていました。
さいごに
足りない場所だと思われていた島こそが、これからの世界の答えを持っていた。
私は、そのことを証明しにきたのかもしれません。けれど、その奥にあったのは、やはりあの小さな願いでした。
“身近な人には健康でいてほしい”
父に叶えてあげられなかったその願いを、私はいま、島の高齢者たちのなかに、そして海を越えた世界に向けて、少しずつ、かたちにしています。
父は、製造業の会社で家族を支えました。私は、島で会社を起こし、人を支える側に回りました。支えるかたちは、父から私へ、確かに受け継がれているのだと思います。
私は、ストーリーをつくりにきた。
その物語は、まだ、始まったばかりです。